2025年3月9日第二主日礼拝 「キリスト教の救い① 罪のゆるし」 マルコの福音書2章1〜12節 吉永輝次先生
- BANGKOK TBEC
- 3月9日
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2025年3月9日 第二主日礼拝
信仰とお金について
日本人はお金について、公に語ることを嫌います。お金は見えないところで、すっと動くのがいいようで裏金や賄賂も見えないところで動くのです。しかし、それが時には事件となりニュースとなって流れるのでお金は汚いものというイメージが定着したのではないでしょうか。NHKの人気番組で「有吉のお金発見!突撃カネオくん」というのがあります。日ごろ興味はあるが、なかなか聞くことができない「お金にまつわる秘密」を掘り下げていくことをコンセプトにしています。社会は様々な仕事が組み合わさって動いていますが、その裏側では同時にお金が動いています。それはいくらなのか、全体でいくらかかっているのかというのは仕事において最重要事項なのでしょうが、直接それを聞くのは日本人としては野暮なイメージがあります。この番組では、その聞きにくいところを明らかにしていくところに、面白みがあるのでしょう。では聖書ではお金についてどのように語られているのでしょう。「金」で検索するなら、628件もありました。聖書とお金はつながりが深いようです。新約聖書の中では「金持ちになりたがる人たちは、誘惑と罠と、また人を滅びと破滅に沈める愚かで有害な多くの欲望に陥ります」Ⅰテモテ6:9。お金を追い求めることは、有害なことが多くあるようです。しかし、一方でこんなみことばもあります。「ですからあなたがたが不正の富に忠実でなければ、誰があなた方に、まことの富を任せるでしょうか。」ルカ16:11.不正な管理人という題がつけられていますが、難解な箇所と言われてます。「不正な富に忠実でなければ」これは一体何?。この解釈として不正な富とはこの世の富を意味しています。なぜ、これが不正なのでしょう。悪いことをして得たという意味ではなく、地上の富は地上でしか使えません。自分が死んだら、それを天に持って行くことはできません。また、持っていても価値が下がったり、盗まれたりすることがあります。そういった富は本物ではないという意味です。そして、比較として「まことの富」って何?となります。まことの富とは天国そのものであり、自分が天国に入り、栄誉を得ることを指します。天国は永遠不滅であり、涙はなく神の愛にあふれ、正しく安全な所です。どちらが良いかは一目瞭然ですが、驚くことは神が不正の富(この世の富)に忠実であれと言われたことです。地上の富も管理できない人は、天の富は管理できないからです。よく聞くみことばに「小さいことに忠実な人は大きいことにも忠実である」があります。同じ文脈で語られたみことばですので小さいこととはこの世の富を指し、大きいこととは天の富を指します。よく言われる「奉仕への忠実さ」を語っているみことばではなく、小さなことである「この世の金銭管理」は当然のように行いなさいということです。では、最初のみ言葉「金持ちになりたがる人たち…」と矛盾しないでしょうか。金持ちになりたがる人とはお金をたくさん集めることが目的の人です。お金は目的を達成する手段であって、目的ではありません。目的がずれています。聖書はクリスチャンはお金は危ないので無関心でいる方が誘惑に陥らなくていいという勧めをしているのではありません。むしろみこころを達成する道具としてお金をしっかり管理しなさいといっており、何の矛盾もありません。クリスチャンでもお金で失敗する人は多くいます。ですからまことの富を得るという目的を定め、小さなことである「地上の金銭管理」も当然のように行うという信仰が求められています。難しい個所ですので、読み返して理解を深めてください。
2025年3月9日 第二主日礼拝
●お知らせ
●静まり (詩篇歌62)
●祈り
●主の祈り
●賛美
・「うたいつつあゆまん 福音讃美歌462番」
・「この道はひとつ」
・「主はぶどうの木」
●献金・感謝の祈り (今ささぐる)
●聖書朗読 マルコの福音書2章1〜12節
●メッセージ 『キリスト教の救い① 罪のゆるし』吉永輝次先生
●応答賛美「聖歌394 ひとりの御子を」
●頌栄 「あまつみ民も 讃美歌544番」
●祝祷
●後奏