2024年12月15日第三主日礼拝(アドベント第三週) 「夜明けの裁判とユダの死」ルカの福音書22章66〜71節、マタイの福音書27章:3〜10節 新納真司先生
- BANGKOK TBEC
- 2024年12月15日
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2024年12月15日 第三主日礼拝(アドベント第三週)
私の中国観2 清水安三先生について
清水安三という人を取り上げます。この人は桜美林学園(中、高、大学)を創立した人です。私はこの高校を卒業しました。それで講堂で何回か清水安三先生の話を聞きました。当時は学校を作った偉いおじいちゃんなんだなというくらいの意識でした。
卒業して、清水安三先生の本を読み、実はすごい人だったと分かり今では尊敬するようになりました。Wiki略歴として1891年6月1日 - 1988年1月17日)は、日本の教育者・牧師。彼は中国宣教師でありました。北京の貧民街である朝陽門で奉仕をしていました。彼らはなぜ貧しいのか?それは教育がなく、手に職がないからだ。それで安三は貧しい子どもたちを集めて教育を与えるため学校を作ろうとして、あちこちから寄付を募りました。そして1921年北京朝陽門で崇貞学園をつくり、勉強を教えながら手に職をつけさせようと、ミシンを買ってきて靴下づくりを生徒に教えたそうです。ここから学問と職を身につけた卒業生を輩出するようになると、職人となった彼らが服飾業を生み出し、広がって後には貧民街がファッションの街に変わるまでになったそうです。それで、安三は北京の聖者と呼ばれました。
1945年日本の敗戦が決まると学校は国に接収され、一文無しになった安三は日本にリュックサック一つで帰ってきました。東京神田を歩いていると、GHQマッカーサーの通訳を務めた賀川豊彦に出会いました。安三と賀川はともに貧民街で働いたことがある同士でもありました。そして賀川が町田市内の米軍工場跡を安三に提供したのです。この時安三は55歳でありましたが、自分もいつか新島襄(同志社大学創設者)のようにここに大学を立てると夢みて桜美林学園を創立しました。1966年にはついに大学を設立し「大学の設立こそは少(わか)き日の 新島襄に享(う)けし夢かも」と詠みました。そんなおじいちゃんとは露知らず、高校生の私は居眠りしていました。
2024年12月15日 第三主日礼拝
●アドベントクランツ点灯 「主を待ち望むアドベント」3番
●お知らせ
●静まり (いざうたえ)
●祈り
●主の祈り
●賛美
・「神の御子は今宵しも」
・「久しく待ちにし」
・「荒野の果てに」
●献金・感謝の祈り (今ささぐる)
●聖書朗読 ルカの福音書22章66〜71節、マタイの福音書27章3〜10節
●メッセージ 『夜明けの裁判とユダの死』新納真司先生
●応答賛美 「我が心の目を開いてください」
●頌栄 「あまつみ民も 讃美歌544番」
●祝祷
●後奏