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2024年12月8日第二主日礼拝(アドベント第二週) 「時満ちて」ガラテヤ人への手紙 4章4〜5節 田村治郎先生

  • 執筆者の写真: BANGKOK TBEC
    BANGKOK TBEC
  • 2024年12月8日
  • 読了時間: 3分

2024年12月8日 第二主日礼拝(アドベント第二週)


私の中国観1 景教について


景教は東回りのキリスト教と言われます。635年ペルシアからの宣教師により中国唐代にもたらされました。宣教師らはシリア語から漢訳した聖書、賛美歌、教義や地理を皇帝に伝えると638年に宣教許可が下りました。大秦寺・景寺の会堂が立ち、教えは広まっていきました。しかし、845年に武宗皇帝に代わると圧力をかけ禁教となりました。景教碑は取り除かれ地に埋められましたが、1625年頃に発見されました。景教碑は正確には「大秦景教流行中国碑」と言い、781年には長安(現在の西安)に建てられました。景教碑には聖書の内容以外にも歴史や地理についても書かれています。


キリスト教は一般にパウロらの伝道により、ヨーロッパなど西側諸国に伝わったとされますが、東方のアジアに向かった人たちもいて、シルクロードを通って中国長安にまでキリスト教が伝わりました。当時の唐帝国とペルシアやローマの東西は陸路や海路で交易が盛んに行われていました。バクダッドと長安はアジア最大の都市で栄え、多くの商人の中にペルシア人信徒がいて中国宣教が実現したことは自然なことでした。日本人にとって興味深いのは、804年の唐時代の長安に遣唐使「空海」がいたことです。空海は平安時代の僧侶であり、真言宗の開祖です。同じ時代に同じ場所にいたのですから景教と接触があった可能性があります。イギリス人の比較宗教学者E・Aゴードンは「弘法大師と景教」の著書でそのことを指摘しています。ゴードンは高野山奥の院に景教碑のレプリカを建造したほどです。


私は西安と高野山奥の院にある景教碑をどちらも見てきました。日本と中国の歴史的つながりを強く感じたものです。シルクロードの東の果ては奈良の正倉院と言われます。正倉院は8世紀の日本の重要な文化財が収蔵されています。その中にはペルシャ、インド、中央アジアからの遺品が多くあります。8世紀は既に日本が大陸から多くの影響を受けて来たことを意味しています。一般に日本のキリスト教伝来は1549年のフランシスコ・ザビエルとなっていますが、それ以前に東回りの景教が伝来があってもおかしくないと考えています。



2024年12月8日 第二主日礼拝

●アドベントクランツ点灯 「主を待ち望むアドベント」2番

●お知らせ

●静まり (我がこころは 讃美歌95番)

●祈り

●主の祈り

●賛美

 ・「あめにはさかえ 讃美歌98番」

 ・「静かに眠れるベツレヘムよ 福音讃美歌75番」

 ・「牧人ひつじを 讃美歌103番」

●献金・感謝の祈り (今ささぐる)

●聖書朗読 ガラテヤ人への手紙 4章4〜5節

●メッセージ 『時満ちて』田村治郎先生

●応答賛美 「神の御子は今宵しも 讃美歌111番」

●頌栄 「あまつみ民も 讃美歌544番」

●祝祷

●後奏


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